評価されるということ

人から評価される(orする)ということは難しいです。
wikipediaによれば

評価(ひょうか)(英:evaluation, assessment)とは、 1. 物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること 2. 品物の値段を定めること、またはその値段 3. 計算機科学で関数や変数の内容を計算すること。ラムダ計算に詳しい。 のことである。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%a9%95%e4%be%a1

ということです。
人の価値を見定める。しかも、数値化することだったり、かなり具体的に扱えるようにすることです。

私は私で見えにくい?

とまあ、これだけ難しいからなのかもしれないのですが、私はよく誤解されることが多く、始めはそれでもいいのかなと思っていました。
それでも、人から受ける印象と実際とのギャップというのは、あとあとになってお互いに不幸になることがなくもないということに少しずつ痛いと思うことが多くなってきました。

表裏一体

この人は努力しているか?頑張っているか?サボっているか?そういった評価ですら、裏表一体・・・受け取り手によっても違います。積極的に参加しているつもりでも、努力しているように見られないとか。どういう風に努力すればいいのか良く分からなくなってしまいます。

人にわかりやすく

誰かに分かりやすく生きるということはどういうことなんでしょうか。あれができるこれができない。あれが好きでこれが嫌い。そういうのを押し付けにならない程度に表現できて、相手に読んでもらえるようにする行動というのも少し意識してやってみる必要があるのかなぁと思います。

他人の目を意識して生きることの必要性

意識しすぎることは必要ないかもしれません。ただ、社会人になって思うのは、それが結構必要だったりするのです。私の親はどちらかというとそういうことと間逆で、周りが気にしてやらないこと言わないことでもズバズバいうタイプです。その血のお陰か、あまり気にせずにやれるところもあるのですが、人にどう思われているのかをもう少し把握した方がよいのかもしれません。

適度な把握を

過度に誰が何を感じて、どこから何を受け取っているか把握する必要はないと思っています。ということは、ある程度はそれも必要だと思います。

どうでもよいのですが

私の周りは努力とかそういうものを見せるのを極端に嫌う人も多くいますし、努力だけでなく、何か別の要素であったりそういうものを極端に人から意識的に隠している人がたくさんいます。
単純に言葉の裏を見るだけでは人のそういった性格は見ることができないわけで、もうちょっと考えてみる必要がありそうです。